少し前から特定の人との交流(やりとり)が増えました。
人とのやりとりが増えると、いろいろな場面や出来事への反応で私と違うところが気になり始めました。
例えば、トイレの手洗い部分にある水道のステンレス製の蛇口。
その人が
『トイレの手洗いの水道の蛇口、あれ、汚れているよね。誰も気にならないのかな。』と。
私はその言葉を聞いて、驚きました。
『え?? そこ?? そこが気になるの?』
これが私の最初の反応でした。
そして、その次に思ったことは、『この人は、どうしてそんな風に思うのかな?』でした。
ステンレス製の蛇口部分に水滴が付いた状態でそのままにしておくと、それが乾燥して、汚れになります。
綺麗なステンレスではなく、水滴の跡が所々残って、曇って見えたりします。
その人は、この部分の汚れが気になったのでしょう。
しかし、私は全く気にならないし、そもそもその水道の蛇口部分をしっかりと見ていませんでした。
後でトイレを見に行くと、その人が言うように確かに蛇口が汚れています。
そうか、この人は、こういうところが気になるんだなと、その人に対してちょっとした発見がありました。
そして、その人の反応を素直に受け入れることができました。
この出来事は、その人にとっての習慣化された反応なのです。
私にも無意識に習慣化された反応はよくあります。
私の母は、綺麗好きで家の中はいつも片付いていました。
どちらかというと片付けが苦手な私は、
子供の頃から自分の学習机の机の上や引き出しの中の散らかった様子を
母から注意されていたことが頻繁にありました。
その結果、私の中では、『散らかっていると怒られる』という固定観念が作られたのです。
少し大人になった私は、友人の家に遊びに行ったときに、
その家の玄関の散らかり具合に違和感を覚えたことがありました。
また、その友達の部屋の中の落ち着きのない状態にも違和感を覚えたことがあります。
そのときは、『この(ちらかった)状態で気にならないのかな』と自動反応的に思ったことがあります。
人と自分は違います。
生まれた場所も違えば、生まれた日時も違います。
育てられた人や環境も違えば、これまで食べてきた物も違います。
だから、当然にして、人と自分は価値観や観念が異なります。
価値観や観念が異なれば、考え方も異なり、出てくる反応も異なります。
それは、当然のことなのです。
しかし・・・・
その当然のことがどこかへ行ってしまい、自分と違う反応をすることに違和感を覚えることがあります。
ある出来事に対して、自分ならこのように反応するのに、自分と違うその人の反応を目の当たりにすると、
『え?? そういう反応するの?? おかしいでしょ!』とか、
『どうしてそういう反応するのか、分からない』とか、
心の中で自分との会話(つぶやき)が始まります。
実は、人の根本にあるのは、『自分基準』です。
今回もそれに私は気が付きました。
人は、『自分が正しい』という無意識の前提を持っているのです。
周りの人の出来事への反応が自分と異なる場面は多々あります。
最初はその反応に驚くこともあるかもしれませんが、
『この人はそういう反応をするんだな』と無条件に受け入れてみると、
その人への発見があったり、或いはその人への見方が変わったり、そして、自分の視野が広がるかもしれませんね。